第1章: 赤ペンの温度

壮介は赤ペンのキャップを外し、原稿の余白に一字書いて、消した。書き直した。また消した。

原稿は新人作家の短編で、夜勤明けの看護師が始発電車で眠りに落ちるまでの二十分間を描いたものだった。六十三ページの中に壮介が引いた赤線は百四十七本。そのうち四十二本には余白に注釈がついている。注釈の一つひとつは、書いてから最低三回は書き直されていた。

「疲労」を「消耗」に変えるべきか。壮介はその二文字の差異について十分間考えた。

「疲労」は回復を前提としている。一晩眠れば戻る。体が覚えている元の状態に、やがて帰る。「消耗」は減っていくだけで戻らない。すり減った分は永遠に失われる。この看護師の夜勤は「疲労」か「消耗」か。

壮介は「消耗」と書いた。それから消した。もう一度「疲労」と書いた。

作者が使った言葉は「疲労」だった。赤を入れるなら根拠がいる。根拠のない修正は暴力だ。壮介はそう信じていたし、それは信念というよりも呼吸に近いものだった。原稿に向かう壮介の手には迷いがない——ように見える。赤ペンの先端が紙に触れてから離れるまでの動作は均一で、文字の太さも間隔も一定だった。しかし近づいて見れば、消し跡がわかる。何度も書き直された痕跡は、完成形だけが残るように慎重に処理されていた。

壮介は「疲労」の横に小さく書いた。〈作者の選択を尊重。ただし、前段の「すり減る」との整合性を確認すること〉。

赤ペンのキャップを嵌めた。小さな音がした。それが壮介にとっての句点だった。一つの判断が終わり、次の判断に移る。嵌める音を聞くたびに、何かが閉じる。閉じたものは安全だ。


十七時に水野が編集室に入ってきた。今年の四月に配属された新人で、壮介の担当作家の一人を引き継ぐ予定になっている。水野は自分の椅子に座りながら、鞄から原稿のコピーを取り出した。壮介が昨日渡したものだ。

「原稿、読みました」

「どうぞ」壮介はモニターから目を離さずに言った。

水野はノートを開いた。付箋が何枚も貼ってある。壮介はそれを視界の端で確認した。付箋の色が三種類に分かれていることに気づいたが、その分類基準については聞かなかった。

「主人公が電車の窓に映った自分の顔を見る場面があるじゃないですか」水野は言った。「あそこ、すごく好きで。自分の顔なのに他人みたいに見えるっていう。あの距離感がいいなと思いました」

壮介は頷いた。「あの場面は機能している。ただ、その三行前の描写が説明的すぎる。『疲れた顔だった』は不要だ。窓に映った顔を見る行為だけで疲労は伝わる。言わなくていいことを言っている」

水野はペンを走らせた。壮介は彼女がノートに書く文字の速度を見ていた。速い。壮介の言葉を一語も落とすまいとするように。その勤勉さが壮介の胸に小さな不安を落とした。

伝わっているのだろうか。

「言わなくていいことを言っている」という壮介の言葉は、水野のノートの中でどんな形に変換されているのだろうか。壮介が意味したのはテキストの純度の話だ。不要な語はノイズであり、ノイズは読者の注意を散らす。だが水野のペンは「読者の余地」と書いている。壮介にはそれが見えた。角度のせいだ。水野のノートは壮介の方に少し傾いていた。

違う。壮介は「純度」と「余地」の違いを説明する言葉を頭の中で組み立て始めた。一文目の途中でやめた。

「壮介さん」

水野が顔を上げた。

「壮介さんの赤入れって、箇所によって温度が違いますよね」

壮介は水野を見た。

「技術的な指摘のところは、なんていうか、乾いてるんです。淡々としている。でも、人物が何かを伝えようとしている場面とか、伝わらなくて黙る場面には、注釈がすごく長くなる。丁寧になるというか」

壮介は何も言わなかった。

水野は続けた。「壮介さんが一番時間をかけてる箇所は、いつもそういう場面だなと思って」

「技法上の問題だ」壮介は言った。声は普段より少しだけ小さかった。最も重要なことを最も静かに言うのは壮介の癖だった。自分では気づいていない。「伝達の場面は構造的に繊細だから、注釈も慎重になる。それだけだ」

水野は頷いた。ノートに何かを書いた。壮介にはその文字が見えなかった。


その夜、壮介は自宅のデスクで原稿の残りを読んでいた。赤ペンを握り、余白に一字書いて、消す。書き直す。消す。蛍光灯の下で赤い文字が浮いて見える。

看護師が同僚に「大丈夫」と言う場面があった。壮介のペンが止まった。

〈「大丈夫」は——〉

壮介は書きかけて、手を止めた。「大丈夫」という言葉について書こうとしたとき、壮介の頭の中で別の声が聞こえた。壁の向こうの声。

——あいつ、何言ってるのかよくわからないんだよな。

笑い声。友人の声。三年間、兄のように慕っていた年上の人間。名前を——壮介はもう考えないことにしていた。声だけが残っている。声と、笑い声と、壮介の知らない誰かの笑い声。

壮介はそのまま引き返した。あの日。廊下の途中で踵を返して、何事もなかったように自分の部屋に戻った。

それ以来だ。壮介が言葉を磨き始めたのは。曖昧さを排除し、誤読の余地を消し、一文が一つの意味しか持たないように。相手が誤解する余地を与えない。そうすれば——。

壮介は赤ペンのキャップを嵌めた。小さな音がした。

〈「大丈夫」は相手を安心させる言葉ではなく、それ以上踏み込ませないための言葉として機能している。この一語にキャラクターの孤立が集約されている。消さないでください。〉

壮介は注釈を書き終えて、もう一度読み返した。正確だ。根拠がある。一語の余分もない。

水野が言った「温度」のことを思い出した。この注釈には温度があるのだろうか。壮介にはわからなかった。わからないことが、少しだけ、不安だった。

赤ペンのキャップを嵌めた。嵌まる音を確かめた。もう一度、確かめた。