第2章: 沈黙の原稿
翌週の月曜日、壮介は新人作家の原稿に最後の赤を入れ、キャップを嵌めた。百四十七本の赤線と四十二の注釈。すべてに根拠がある。すべてが一つの意味しか持たない。壮介はその原稿を封筒に入れ、作家の名前を書いた。
十四時に田村が編集室に来た。
田村修一、六十二歳、編集長。壮介が入社したときには既にこの会社にいた人間で、文芸編集者としての壮介を形作った人物の一人だった。田村は普段、編集室には来ない。編集長室から内線をかけるか、会議室に呼ぶ。編集室に足を運ぶのは、電話では済まない話があるときだけだ。
田村は壮介のデスクの前に立った。手に茶封筒を持っていた。封筒は古く、角が丸みを帯びていた。
「時間あるか」
壮介は椅子を回した。「はい」
田村は茶封筒を壮介のデスクに置いた。置き方が妙に丁寧だった。壊れ物を扱うように。あるいは、手放したくないものを手放すように。
「黒田淳一の原稿だ」
壮介の手が止まった。黒田淳一。デビュー作『境界の舌』で芥川賞候補になり、その後の二作で文壇を震撼させた作家。三十代で書くのをやめた。十五年前のことだ。以来、一行も発表していない。
「未発表の長編だ。先週、黒田の代理人から届いた」
「代理人」
「弁護士だよ。黒田本人からの連絡じゃない。弁護士が持ってきた」
壮介は封筒を見た。茶色い紙の表面に、黒いインクで「原稿」とだけ書いてあった。タイトルも著者名もない。
「なぜ私に」
田村は一瞬、壮介の目を見た。それからデスクの封筒に目を落とした。
「俺がかつて黒田の担当だった。知ってるだろう」
壮介は頷いた。
「あのとき俺は——」田村は言いかけて、やめた。代わりに言った。「お前の赤ペンが必要だ。この原稿には」
壮介は田村の言い淀みを聞いた。「あのとき俺は」の後に続くはずだった言葉。田村はそれを嵌めた。キャップを嵌めるように。
「読んでくれ。それから話そう」
田村は編集室を出ていった。壮介は茶封筒を手に取った。封は切られていた。田村が先に読んだのだろう。封筒の端に、わずかに指の跡が残っていた。何度も開けては閉じた痕跡。
壮介は原稿を取り出した。
四百字詰め原稿用紙ではなかった。A4のコピー用紙に、ワープロで打たれた文字。フォントは明朝体、十二ポイント。行間は広い。一ページあたりの文字数が少ない。
壮介はまず全体をめくった。三百二十ページ。長編としては標準的な分量だ。タイトルページはない。一ページ目からいきなり本文が始まる。
壮介は赤ペンのキャップを外した。
一行目を読んだ。
二行目を読んだ。
三行目で、壮介のペンが紙に触れかけて、止まった。
文章は破綻していなかった。文法的な誤りはない。しかし何かが——壮介は赤ペンを原稿に近づけた。近づけたまま、書けなかった。
壮介は十ページ読み進めた。赤ペンを持ったまま。
原稿には穴があった。比喩ではない。文字通りの空白が、本文の中に点在していた。文章が途切れ、数行の空白があり、また文章が始まる。段落の途中で言葉が途絶え、次の段落で別の場面が始まる。登場人物の台詞が途中で切れている箇所もあった。「あなたは」で終わり、次の行は空白だった。
壮介の赤ペンは、その穴のそれぞれに向かって動きかけた。空白は埋めるべきだ。途切れた文は完成させるべきだ。切れた台詞は補うべきだ。それが編集者の仕事だ。
しかし壮介は書けなかった。
壮介は二十ページ目で立ち止まった。主人公が窓の外を見ている場面だった。主人公の視線の先に何があるかは書かれていない。窓の外の描写が、三行の空白で省略されている。
壮介はその三行の空白を読んだ。読んだ、というのは正確ではない。見た。見つめた。三行の白い紙を。そこには何も書かれていない。何も書かれていないのに、壮介の目はそこに留まった。
赤ペンを入れるべき箇所は無数にあった。時制の揺れ、比喩の不統一、説明不足の人物描写。壮介の目はそれらを正確に捉えていた。しかしペンが動かない。指が動かない。
壮介は原稿を閉じた。デスクの上に置いた。赤ペンのキャップを嵌めた。
嵌める音がしなかった。力が足りなかったのだ。もう一度嵌め直した。今度は音がした。しかしそれは、いつもの安心をもたらさなかった。
翌日、壮介は田村の編集長室に行った。
田村はデスクの向こうで書類を読んでいた。壮介が入ると、書類を裏返した。
「読んだか」
「読みました」
「どうだ」
壮介は少し黙った。
「赤を入れる箇所は百以上あります。時制の揺れ、比喩の不統一、空白の多用。構造的にも穴がある。このままでは出せません」
田村は頷いた。「それで」
「それで——」壮介は言いかけて、止まった。
壮介は正直に言った。「赤を入れられませんでした」
田村は壮介を見た。目の奥に何かが動いた。驚きではなかった。予感が当たった、というような表情だった。
「あの原稿は」田村は言った。声が少しだけ低くなった。「そのままでは出せない。だが、手を入れたら死ぬ」
壮介は田村の言葉を聞いた。「死ぬ」。大げさな表現だった。編集者が原稿について「死ぬ」という言葉を使うのは珍しいことではない。「この場面を切ったら死ぬ」「このリズムを変えたら死ぬ」。しかし田村の「死ぬ」には、比喩以上の重さがあった。
「田村さんは、あの原稿に赤を入れましたか」
田村は首を横に振った。「入れられなかった。十五年前も、今回も」
十五年前。田村が黒田の担当だった頃。壮介は田村の顔を見た。田村は窓の方を向いていた。編集長室の窓からは、向かいのビルの壁しか見えない。
「黒田に会ってくれ」田村は窓に向かって言った。「来週、会える手はずを整える」
壮介は編集長室を出た。廊下を歩きながら、赤ペンのキャップに指を触れた。嵌まっている。嵌まっているのに、閉じた感じがしなかった。