第3章: 余白を埋めるな

第3章: 余白を埋めるな 挿絵

黒田淳一が指定した場所は、神保町の古い喫茶店だった。

壮介は約束の時刻の十分前に着いた。店の奥の席。壁に古い映画のポスターが貼ってある。コーヒーを頼み、赤ペンを胸ポケットに確認した。原稿のコピーを鞄から出し、テーブルの端に置いた。付箋が十二枚、修正提案のメモが三枚。壮介は付箋の位置をもう一度確認した。

黒田は五分遅れて来た。

壮介が想像していたのとは違った。隠遁した作家は痩せて暗い目をしているものだと、どこかで思い込んでいた。実際の黒田は大柄で、顔色がよく、白髪交じりの髪を短く刈り込んでいた。コートを脱いで椅子にかける動作に無駄がなかった。

「黒田です」

「壮介です。お会いできて——」

「田村から聞いている」黒田は壮介の挨拶を途中で遮った。声は穏やかだった。遮り方だけが穏やかでなかった。「原稿を読んだそうだな」

「読みました」

「それで」

壮介は一瞬、田村と同じ問いかけだと思った。「それで」。田村も黒田も、同じ二文字で壮介の返答を待った。しかし二人の「それで」は違う場所を指していた。田村の「それで」は「赤を入れたか」を聞いていた。黒田の「それで」は——壮介にはまだわからなかった。

「いくつか気になった点があります」壮介は原稿のコピーを手に取った。付箋が貼ってあるページを開いた。「まず、三十七ページの——」

「修正案を持ってきたのか」

黒田は壮介の手元を見た。付箋と、メモ。壮介の赤ペンが入っていない原稿のコピーに、代わりに付箋で修正提案が添えてある。赤を入れられなかった原稿に、別の方法で赤を入れようとしている。

「提案です。採用するかどうかは黒田さんが——」

「見せてくれ」

壮介は付箋のついたページを黒田に向けた。三十七ページ。主人公の独白が途中で途切れ、四行の空白がある箇所だった。壮介の付箋にはこう書いてあった。〈独白の続きが必要。主人公の内面を補完することで読者の理解が深まる〉。

黒田は付箋を読んだ。それからコーヒーを一口飲んだ。カップを置いた。壮介を見た。

「この四行の空白は、そこにあるべくしてある」

「ですが、読者は——」

「読者が何を読むかは、読者が決める」

壮介は黒田の目を見た。穏やかだった。しかしそこに譲歩の気配はなかった。壮介は次の付箋のページを開いた。五十二ページ。登場人物の台詞が途中で切れている箇所。「あなたは」の後の空白。

「ここも、台詞の続きが——」

「続きはない」

「書くつもりがないということですか」

「書いたら死ぬ」

壮介は黒田を見た。田村と同じ言葉だった。「死ぬ」。しかし黒田の「死ぬ」は田村の引用ではなかった。黒田の「死ぬ」は——壮介はその重さを測ろうとした。比喩か、文字通りか。

「余白を埋めるな」黒田は言った。声はなお穏やかだった。「あの原稿の余白には、俺が書けなかったものがある。書けなかったのではない。書かなかったのだ。その区別が、あの原稿の全てだ」

壮介は赤ペンのキャップを握っていた。握っていることに気づいた。胸ポケットの中で、キャップに指が触れていた。強く。

「黒田さん。曖昧な箇所を残したまま出版するのは——」

「お前に聞いているのではない」黒田は穏やかに言った。穏やかさが壁だった。「俺は出版するかどうかも決めていない。原稿を見せたのは田村だ。田村が勝手に動いている」

壮介は黙った。

黒田はコーヒーを飲み終えた。カップをソーサーに戻す音が小さく響いた。

「もう一つ聞いていいか」黒田は言った。

壮介は頷いた。

「お前は原稿に赤を入れたか」

壮介は答えた。「入れられませんでした」

黒田は壮介を見た。長い間。壮介はその視線の中に、何かを探されている感覚を覚えた。品定めではない。確認だった。何かを確認している。

「そうか」黒田は立ち上がった。コートを手に取った。「また来い。来たければ」

黒田は会計も済まさずに出ていった。壮介は残されたテーブルで、赤ペンのキャップを握ったままだった。握っていた。指が白くなるほど。


編集室に戻ると、水野がいた。自分のデスクで原稿を読んでいた。壮介が担当する別の作家のものだ。

壮介は自分の椅子に座った。黒田の原稿のコピーを鞄から出し、デスクに置いた。付箋がまだ貼ってある。一枚も剥がされていない。修正提案は一つも受け入れられなかった。

水野が顔を上げた。壮介の表情を見たのだろう。何も聞かなかった。

五分ほど沈黙が続いた。壮介はモニターを見ていたが、画面の文字は読めていなかった。

「壮介さん」水野が言った。「黒田淳一の原稿って、私も読んでいいですか」

壮介は水野を見た。

「社内の原稿管理規定では、担当編集者の許可があれば閲覧可能です」水野は付け加えた。規定を先に調べていた。

壮介は少し考えた。黒田の原稿を水野に見せることに、明確な理由はなかった。しかし断る理由もなかった。壮介は自分でも気づかないうちに頷いていた。

「コピーを渡す。ただし、赤は入れるな」

壮介はそう言ってから、自分の言葉に驚いた。黒田の言葉だった。「余白を埋めるな」が、壮介の口から「赤は入れるな」という形で出てきた。壮介はその変換に気づいた。気づいたが、訂正しなかった。

水野は頷いた。ノートを開いた。何かを書いた。壮介にはその文字が見えなかった。

壮介は赤ペンのキャップを握った。まだ強く。嵌めるでもなく、外すでもなく。ただ握っていた。