第4章: 書かれなかった手紙

第4章: 書かれなかった手紙 挿絵

夜の十一時、壮介は自宅のデスクに向かっていた。

黒田の原稿のコピーが開いてある。八十三ページ目。主人公が手紙を書いている場面だった。手紙の宛先は明かされない。手紙の内容も、途中で途切れている。三行書いて、空白。また二行書いて、空白。手紙が完成する前にページが終わり、次のページでは別の場面が始まっている。

壮介は赤ペンのキャップを外した。八十三ページの余白に注釈を書こうとした。

〈手紙の〉

書いて、消した。

〈この手紙は〉

書いて、消した。赤いインクの跡が重なった。何を書くべきなのか、壮介にはわからなかった。わからないのではない。わかりかけていた。わかりかけているから書けなかった。


壮介がまだ三十二歳だった頃、手紙を書いた。

相手は幸夫という男だった。大学の同じサークルで出会い、卒業後も続いた関係だった。壮介にとっては三年間、兄のように慕った友人だった。幸夫にとって壮介は——壮介は正確には知らない。知ろうとしたことがなかった。

壮介が壁の向こうで幸夫の声を聞いたのは、二十八歳のときだった。

壮介は幸夫のアパートを訪ねた。ドアが半開きだった。中から声が聞こえた。幸夫の声と、知らない誰かの声。

「あいつ、何言ってるのかよくわからないんだよな」

幸夫が笑った。知らない誰かも笑った。

「真面目すぎるっていうか、言葉が固いっていうか。話してると息が詰まるんだよな。悪い奴じゃないんだけど」

壮介は廊下に立っていた。ドアノブに触れかけた手を引いた。踵を返した。階段を降りた。

それから四年間、壮介は何も言わなかった。幸夫との関係は続いた。飲みに行き、映画を観に行き、年末に互いの実家の話をした。壮介は何も変わらなかったように振る舞った。変わっていた。壮介の言葉はその日から変わった。一文が短くなった。曖昧な表現を避けるようになった。冗談を言わなくなった。冗談は誤読の余地が大きい。

幸夫はそれに気づかなかった。あるいは、気づいていたが何も言わなかった。

四年後、壮介は手紙を書いた。

手紙の中身は、壮介が四年間言えなかったことだった。壁の向こうで聞いた言葉。それ以来、壮介がどう変わったか。変わった自分が幸夫とどう向き合ってきたか。そして——壮介はこう書いた。「あなたの言葉は正確に届いていました。私が何を言っているかわからないという感覚は、正しかった。私は伝え方が下手だった。だから磨いた。四年間磨いた。今なら伝えられると思う」。

壮介はその手紙を三日間かけて書いた。書いては消し、書いては消した。一文ずつ磨いた。余計な感情を削った。曖昧さを排除した。壮介が持つ技術の全てを使って、誤読の余地のない手紙を仕上げた。

壮介は手紙を投函した。

一週間後、幸夫から返事が来た。電話だった。

「手紙、読んだよ」幸夫の声は穏やかだった。「壮介、お前さ——俺のこと、四年間ずっと恨んでたのか」

壮介は受話器を握ったまま、何も言えなかった。

恨んでいなかった。一度も。壮介が手紙に書いたのは、恨みではなかった。変わろうとした四年間の記録だった。伝え方を磨いた過程の報告だった。しかし幸夫はそれを「恨み」として読んだ。四年間の沈黙を「怒り」として受け取った。壮介が削ったはずの感情が、削った跡に残っていた。消した言葉の痕跡が、残った言葉より雄弁だった。

壮介は言った。「恨んでいません」

幸夫は黙った。

「本当に。手紙に書いた通りです。磨こうとしただけです」

幸夫はさらに黙った。それから言った。「壮介、お前の手紙さ。磨いてあるのはわかるよ。でもな、磨いてあるから怖いんだよ。普通の人間はあんなふうに手紙を書かない」

壮介は受話器を置いた。置いてから、もう一度取り上げた。幸夫はまだいた。

「すみません」壮介は言った。

「謝らなくていいよ」

「すみません」

電話はそれで終わった。幸夫との関係もそれで終わった。壮介の手紙は、壮介が意図した通りには届かなかった。磨かれた言葉は恐怖として届いた。誤読の余地を消したはずの手紙が、最悪の誤読を生んだ。


壮介はデスクの上の原稿に目を戻した。

八十三ページ。黒田の主人公が書いている手紙。途中で途切れる手紙。完成しない手紙。

壮介は初めて、その空白の意味を考えた。黒田の主人公は手紙を完成させなかった。途中でやめた。その「やめた」ことが——壮介は赤ペンを原稿に近づけた。近づけて、止めた。

壮介が幸夫に送った手紙は完成していた。磨かれていた。だから壊れた。

黒田の主人公の手紙は完成していない。途切れている。だから——壮介はまだその先を言語化できなかった。しかし赤ペンを入れるべきだという確信が、少しだけ揺らいだ。穴があるから壊れているのではないかもしれない。穴があるから、まだ壊れていないのかもしれない。

壮介は赤ペンのキャップを外したまま、原稿の八十三ページを見つめていた。書いては消す。書いては消す。同じ手つきだった。しかし今夜は、消した跡に何かが残っている気がした。消してもそこにある何か。壮介にはまだそれが何かわからなかった。

赤ペンを机に置いた。キャップは嵌めなかった。嵌め忘れたのだ。それだけのことだった。