第5章: 沈黙で書かれた原稿
水野は黒田の原稿を三回読んだ。
一回目は壮介の赤ペンが入った他の作家の原稿と同じように読んだ。技術的な問題を探す読み方だった。時制の揺れ、比喩の不統一、説明不足の人物描写。壮介が指摘するであろう箇所を、水野なりに予測しながら読んだ。ノートに付箋を貼り、問題点を書き出した。三十七箇所。壮介より少ないだろうが、方向性は合っているはずだった。
二回目は、付箋を全部剥がしてから読んだ。
水野は大学三年のとき、友人の「大丈夫」を額面通りに受け取った。二週間後、友人は大学に来なくなった。それ以来、水野は言葉の裏を読むようになった。声の温度、間の長さ、選ばなかった別の言葉を。その読み方で、黒田の原稿をもう一度読んだ。
文章と文章の間にあるもの。段落と段落の間にあるもの。台詞が途切れた後の空白。水野はそれらを「欠陥」として読むのをやめた。代わりに、そこに何が「書かれていない」のかを考えた。
三回目は、空白だけを読んだ。
文字が印刷されている行を飛ばし、空白だけを順番に追った。三十七ページの四行の空白。五十二ページの台詞の途切れ。八十三ページの未完の手紙。百二十ページの、主人公が窓の外を見つめる場面の後の三行の沈黙。
空白を順番に並べると、それは別の物語を形成していた。
水野はノートを閉じた。付箋は一枚も貼らなかった。
金曜日の午後、水野は壮介のデスクに近づいた。
壮介は黒田の原稿のコピーを広げていた。余白に赤ペンの跡が散在している。書いては消した跡。一つも完成した注釈がない。
「壮介さん」
壮介は顔を上げた。
「黒田さんの原稿のことで、聞いてほしいことがあるんですが」
壮介は椅子を回した。水野の手にはノートがあった。しかし開いていなかった。
「読んだのか」
「三回読みました」
壮介は少し驚いた。水野に原稿を渡したのは四日前だった。三百二十ページの長編を三回。
「問題点はいくつ見つかった」
「最初に読んだときは三十七箇所です」
「三十七」壮介は頷いた。「俺は百以上見つけた」
「はい。でも、二回目に読んだとき、三十七箇所は全部消えました」
壮介は水野を見た。
「消えた」
「問題に見えなくなったんです」
壮介は黙った。水野は続けた。
「壮介さん。あの原稿には穴がありますよね。空白が散在している。文章が途切れて、台詞が途中で切れて、描写が省略されている」
「ある」
「あの穴は、穴じゃないと思います」
壮介は水野のノートを見た。閉じたまま。水野はノートを開かなかった。
「壮介さんは原稿に赤を入れるとき、書かれている言葉を読んでいますよね。書かれている言葉が正確か、余分がないか、構造が正しいか。言葉を読んでいる」
壮介は頷いた。
「あの原稿は、言葉で書かれていないんです」
水野の声は静かだった。しかし確信があった。壮介が水野のノートの文字を斜めに読んでいた頃の、あの勤勉な新人の声ではなかった。
「言葉と言葉の間の沈黙で書かれているんです」
壮介は水野を見つめた。水野は壮介の視線を受けた。逸らさなかった。
「空白を順番に読むと、別の物語が見えます。書かれている文章は——表面です。表面の下に、書かれなかった文章でできた別の層がある。黒田さんはその層を読ませたいんだと思います。だから空白を埋めたら死ぬ。表面だけが残って、下の層が消えるから」
壮介は何も言わなかった。言えなかった。
水野の言葉は壮介の耳に届いていた。届いていたが、壮介の中で何かが抵抗していた。壮介はこれまで、言葉を正確に読むことで原稿と向き合ってきた。書かれている文字を、一字の余分もなく、一字の不足もなく把握する。それが壮介の仕事だった。技術だった。存在意義だった。
水野が言っているのは、その逆だった。書かれていないものを読め。沈黙を聞け。言葉の精密さではなく、言葉の不在に意味がある。
壮介は自分の赤ペンを見た。デスクの上に転がっている。キャップが外れたまま。四日前から嵌め忘れている。
「水野」壮介は言った。声が小さかった。最も重要なことを最も静かに言う癖。「お前のその読みは——」
壮介は一度止まった。
「俺が見落としていたものだ」
水野はノートを膝の上に置いた。何も書かなかった。
その夜、壮介は自宅で黒田の原稿を開いた。
赤ペンは持たなかった。代わりに原稿を膝の上に載せ、ページをめくった。文字を読む速度ではなく、もっとゆっくりと。一ページずつ、余白を見ながら。
三十七ページ。四行の空白。壮介はその空白を見つめた。赤ペンを持っていた頃は、その四行に「ここに主人公の内面を補完すべき」と書こうとした。今、壮介はそこに何も書かなかった。空白を空白として見た。
主人公の独白が途切れている。途切れた先に空白がある。読者は自分でその空白を埋める。壮介が埋めるのではなく、読んだ人が埋める。壮介が埋めた瞬間、それは壮介の読みでしかなくなる。空白のままなら、読者の数だけ別の独白が生まれる。
壮介はページをめくった。五十二ページ。「あなたは」の後の空白。壮介はその空白を読んだ。読んだ。今度は本当に読んだ。
「あなたは」の先に、壮介は自分の言葉を聞いた。それは黒田が書いた言葉ではなかった。壮介自身の言葉だった。壮介が幸夫に言いたかった何か。手紙に書いて、磨いて、届かなかった何か。
壮介は原稿を閉じた。膝の上に載せたまま、しばらく動かなかった。
赤ペンは机の上にあった。キャップが外れたまま。壮介はペンに手を伸ばした。伸ばして、止めた。今日は赤ペンで原稿に向かわない。今日は原稿に向かう。赤ペンなしで。
壮介は原稿を開き直した。一ページ目から。今度は、書かれていないものを読むために。