第6章: 届きすぎた言葉
壮介は二度目の喫茶店に、赤ペンを持たずに行った。
同じ店。同じ奥の席。しかし壮介の鞄には原稿のコピーだけが入っていた。付箋もメモもない。赤ペンは編集室のデスクの上に置いてきた。キャップが外れたまま。
黒田は今度は時間通りに来た。コートを椅子にかけ、コーヒーを頼み、壮介を見た。
「今日は手ぶらだな」
壮介は頷いた。「修正提案はありません」
黒田の表情が微かに動いた。前回とは違う何か。警戒が薄れたのではない。興味が生まれたのだった。
「原稿を、もう一度読みました」壮介は言った。「前回とは違う読み方で」
「違う読み方」
「空白を読みました」
黒田はコーヒーカップを持ち上げかけた手を止めた。
壮介は原稿のコピーをテーブルに出した。八十三ページを開いた。主人公が手紙を書いている場面。途中で途切れる手紙。
「ここの空白には、主人公が書けなかった言葉があると思います。書けなかったのではなく、書かなかった言葉が。黒田さんがおっしゃった通りの区別です」
黒田は壮介を見た。前回とは違う目だった。前回は確認の目だった。今回は——壮介にはうまく言えなかったが、待っている目だった。何かを待っている。
「この原稿の余白を埋めようとは思いません。ただ——」壮介は言いよどんだ。「なぜ書かなかったのか、聞いてもいいですか」
黒田はコーヒーを一口飲んだ。カップをソーサーに戻した。音を立てなかった。前回は小さく音がした。今回は音がしなかった。
「お前は、言葉を磨く人間だな」
壮介は頷いた。
「俺もそうだった」
黒田はテーブルの上の原稿を見た。見ているが、読んでいるのではなかった。原稿の向こうに何かを見ていた。
「二十年前、俺に一人の弟子がいた。弟子というのは正確じゃないが、若い作家だ。デビュー前の。俺の三冊目が出た頃に手紙をくれた。自分の原稿を読んでほしいと。俺は読んだ」
黒田はここで少し止まった。コーヒーカップの取っ手を指で触った。回した。一周させて、元の位置に戻した。
「原稿は荒削りだった。しかし何かがあった。言葉の選び方が——粗いが、正直だった。俺が失くしかけていたものが、あの子の原稿にはあった」
壮介は黙って聞いていた。
「俺は赤を入れた。丁寧に。正確に。三十八箇所。あの子の原稿に対する俺の読みを、一字の余分もなく書いた。技法の問題、構造の問題、描写の問題。全て根拠を示した。全て正確だった」
黒田の声は穏やかだった。穏やかだが、どこかが軋んでいた。壮介にはそれが聞こえた。声の温度がわずかに変わる箇所。水野が壮介の赤入れに見つけた「温度差」と同じものが、黒田の声にもあった。
「あの子は俺の赤を読んだ。全部。一字も飛ばさずに。そして次に会ったとき、こう言った。『先生のおっしゃる通りです。全部その通りです。自分の原稿がどれだけ未熟か、よくわかりました』」
黒田は原稿のコピーに目を落とした。
「それが最後だった。あの子はそれ以来、何も書かなくなった」
壮介の指が膝の上で動いた。赤ペンを握る形。しかしペンはない。
「俺の言葉は正確だった」黒田は言った。「正確に届いた。だからあの子は書けなくなった。俺の赤が、あの子の中にあった何かを——粗くて、未熟で、しかし正直だった何かを、殺した」
壮介は黒田を見た。
「あの子は俺の言葉を一字一句正確に受け取った。俺が意図した通りに。一語の誤読もなく。俺の批評は完璧に伝わった。完璧に。だから——」
黒田はそこで止まった。コーヒーカップの取っ手をもう一度回した。今度は元に戻さなかった。
壮介は幸夫の声を聞いた。記憶の中で。「磨いてあるから怖いんだよ」。壮介の手紙は意図と違う形で届いた。黒田の赤は意図通りに届いた。結果は同じだった。届いても届かなくても、磨いた言葉は人を壊す。
「それが『死ぬ』の意味ですか」壮介は言った。声が小さかった。
黒田は壮介を見た。
「あの原稿の余白は、俺があの子に言わなかった言葉だ。正確に届けることの代わりに、俺が選んだのは——何も言わないことだった。余白は、俺の沈黙だ。あの原稿の余白を埋めたら、俺はまた正確な言葉を書く。正確な言葉は、また誰かを殺す」
壮介はテーブルの上の原稿を見た。八十三ページの空白。途切れた手紙。その空白は、黒田があの若い作家に言えなかった言葉だったのか。あるいは、言わないことを選んだ言葉だったのか。
壮介は自分の手を見た。赤ペンのない手。壮介はこれまで、言葉の精密さが人を救うと信じていた。正確に伝えれば誤解は生まれない。磨けば届く。しかし黒田は正確に届けて、人を壊した。壮介は磨いて送って、人を失った。
精密さは凶器になる。
壮介はその言葉を頭の中で形成した。声には出さなかった。出したら、その言葉が黒田に正確に届くだろうから。
「黒田さん」壮介は言った。「その作家は、今——」
「知らない」黒田は言った。短く。「知ろうとしなかった」
壮介は頷いた。問い続けなかった。
黒田はコートを手に取った。立ち上がった。今回は会計を済ませた。レジに向かう途中で振り返った。
「お前が空白を読んだのは——初めてのことだ。田村には、できなかった」
黒田は店を出た。壮介は残されたテーブルに座っていた。原稿のコピーが開いたまま。八十三ページ。途切れた手紙。空白。
壮介は自分の未来を見た。このまま言葉を磨き続ければ、壮介も黒田になる。赤ペンの精密さが、いつか誰かの何かを殺す。壮介の赤入れの「温度」が——あの温度は、壮介が制御できないものだった。制御できないものが、赤ペンの先から漏れている。
壮介はテーブルの上に両手を置いた。赤ペンがない手。空の手。その手が少しだけ震えていた。