第7章: 赤ペンを置く
月曜日の朝、田村が壮介のデスクに来た。
編集長室から出てきたのではなかった。社の玄関から。コートを着たまま。出社して最初に向かったのが壮介のデスクだった。
「壮介」
田村の声には普段と違う硬さがあった。壮介はモニターから目を離した。
「来月の編集会議で、黒田の原稿について報告してもらう」
壮介は田村を見た。「報告」
「出版の可否を決める。社としての判断だ。いつまでも待てない」
田村はデスクの端に手を置いた。手が少し震えていた。寒さのせいかもしれない。コートを着たままだから。しかし壮介は、それが寒さだけではないことを知っていた。田村の手は、黒田の原稿の話をするときだけ震える。
「来月の——あと三週間ですか」
「三週間だ。それまでに判断を出せ。赤を入れて出すのか、そのまま出すのか、出さないのか」
壮介は黙った。
田村は壮介のデスクの上を見た。赤ペンが転がっている。キャップが外れたまま。何日も外れたままだ。田村はそれに目を留めたが、何も言わなかった。
「田村さん」壮介は言った。「一つ聞いていいですか」
田村は待った。
「なぜ私を選んだんですか。この原稿の担当に」
田村は壮介の顔を見た。それから窓の方を向いた。二階の編集室の窓からは、通りを歩く人の頭が見える。
「十五年前、俺は黒田の担当だった」田村は窓に向かって話した。壮介に向かってではなく。「あのとき黒田が休筆すると言ったとき、俺は——止めなかった。止められなかったのではない。止めなかった」
壮介は田村の背中を見た。田村の背中は広い。しかし今日は少しだけ丸まっていた。
「俺は良い作品を世に出すことが編集者の仕事だと思っていた。作家の人生に踏み込む必要はないと。原稿の質だけを判断すればいい。黒田が書くのをやめると言ったとき、俺は原稿の話をした。人生の話をしなかった」
田村は振り返った。壮介を見た。
「お前は——俺とは違う。赤ペンの向こうに自分がいる人間だ。水野がそう言ったのを、俺は聞いていた」
壮介は息を吸った。
「俺がお前を選んだのは、お前の赤が正確だからじゃない。お前の赤には温度があるからだ。俺の赤には温度がなかった。だから黒田を止められなかった」
田村はコートのボタンに手をかけた。外した。やっと社内に着いた、という動作だった。
「三週間だ」田村は繰り返した。今度は壮介に向かって。「頼む」
田村は編集長室に向かった。壮介は残されたデスクで、赤ペンを見た。キャップが外れたまま。
その夜、壮介は自宅で黒田の原稿を開いた。赤ペンは持っていない。持っていないことに、もう違和感がなかった。
壮介は原稿を一ページ目から読んだ。三度目の通読。一度目は赤ペンを持って読んだ。二度目は水野の洞察を受けて空白を読んだ。三度目は——壮介は何として読んでいるのかを自分でもわからなかった。編集者としてではない。読者として、でもない。壮介として、読んでいた。
百二十ページまで来た。主人公が窓の外を見つめる場面。三行の空白。壮介はその空白の前で止まった。前回もここで止まった。
壮介はその三行に自分の言葉を聞いた。前回は幸夫に言いたかった何かが聞こえた。今回は——違う声が聞こえた。壮介自身の声。壮介がまだ発していない言葉。磨いてもいない、制御してもいない言葉。
壮介は原稿を膝の上に置いた。天井を見た。部屋は暗く、デスクライトだけが原稿を照らしている。
三週間。判断を出さなければならない。赤を入れて完成させるか。余白のまま出すか。出さないか。
壮介は黒田の声を思い出した。「余白を埋めたら死ぬ」。壮介は田村の声を思い出した。「お前の赤には温度がある」。壮介は水野の声を思い出した。「沈黙で書かれている」。壮介は幸夫の声を思い出した。「磨いてあるから怖い」。
四つの声が壮介の中で重なった。全部、違うことを言っている。しかし全部、同じことを指している。言葉は制御できない。磨いても、削っても、余白を残しても。発した瞬間に手を離れる。
壮介は原稿を閉じた。デスクの上に置いた。
翌日の昼休み、水野が壮介のデスクに来た。コンビニのサンドイッチを持って。
「壮介さん、昼食べました?」
「まだだ」
水野は自分の椅子を壮介のデスクの横に持ってきた。二人でサンドイッチを食べた。壮介は普段、昼を一人で食べる。水野がデスクの横に椅子を持ってくるのは初めてのことだった。
「壮介さん」水野は卵サンドを食べながら言った。「原稿のこと、まだ考えてますか」
「考えている」
「赤を入れないことに決めましたか」
壮介はサンドイッチを置いた。「なぜそう思う」
「赤ペンが」水野は壮介のデスクを見た。「ここ一週間ずっと、同じ場所に置いてあるから。キャップが外れたまま。動かしてないですよね」
壮介は赤ペンを見た。確かに動かしていない。デスクの右端。キャップが外れたまま。インクが乾いているかもしれない。
「まだ決めていない」壮介は言った。
「でも、変わりましたよね」水野は言った。声が穏やかだった。壮介が新人作家の原稿について話すときの声と同じ穏やかさだった。立場が逆転していた。水野が壮介を観察している。壮介が言葉を選んでいる間を、水野が待っている。
「変わった——のかもしれない」壮介は言った。声が小さくなった。最も重要なことを最も静かに言う。壮介はその癖に、ようやく気づいた。
水野は何も書かなかった。ノートは鞄の中だった。今日は出していない。
壮介はデスクの上の赤ペンに手を伸ばした。伸ばして——止めた。ペンに触れなかった。代わりにキャップだけを拾い上げた。キャップを指で回した。嵌めようとはしなかった。ただ手の中に持っていた。
それからキャップをペンの横に置いた。ペンとキャップ。並べて。握らない。嵌めない。ただ、そこに置いた。
水野は壮介のその動作を見ていた。何も言わなかった。