第8章: 編集者ノート
編集会議の前日、壮介は編集室に一人で残っていた。
デスクの上に黒田の原稿がある。三百二十ページ。赤ペンの跡は一つもない。付箋も剥がした。修正提案のメモも捨てた。原稿は壮介が最初に受け取ったときのまま——空白を含んだまま、テーブルの上にあった。
赤ペンはデスクの右端に置いてある。キャップはその横に。並んだまま。何週間も動かしていない。
壮介は赤ペンを手に取った。
久しぶりだった。指になじむ重さ。キャップを外す。先端にインクが固まっていた。やはり乾いていた。壮介はペン先を紙の切れ端でこすった。赤いインクが薄く滲んだ。まだ書ける。
壮介は原稿を開かなかった。
代わりに、白い紙を一枚引き出しから取り出した。A4のコピー用紙。黒田の原稿と同じ紙。壮介はその紙の上に赤ペンを構えた。
赤ペンで原稿に注釈を入れるのではなく、赤ペンで自分の言葉を書く。それは壮介がこれまでしたことのない行為だった。壮介の赤ペンは常に他人の言葉に向けられていた。他人の言葉を正確にし、不要を削り、曖昧さを消す。壮介自身の言葉を赤ペンで書いたことは、一度もなかった。
壮介は書き始めた。
〈編集者ノート〉
書いて、止まった。
かつて壮介は幸夫に手紙を書いた。三日間かけて磨いた。一文ずつ精密に。誤読の余地をなくし、曖昧さを排除した。その手紙は恐怖として届いた。
今、壮介は同じ赤ペンで別のものを書こうとしている。磨かないもの。削らないもの。曖昧さを残したまま、余白を含んだまま、壮介という一人の読者が黒田の原稿から受け取ったものを。
壮介は書いた。
〈この原稿を初めて読んだとき、私は赤を入れられなかった。空白が欠陥に見えた。埋めるべき穴に見えた。〉
書いた。消さなかった。
〈二度目に読んだとき、空白は沈黙に変わった。書かれていない言葉で書かれた物語が見えた。〉
書いた。消さなかった。文が荒い。壮介がいつも原稿に求める水準には達していない。比喩が不正確で、文末のリズムが揺れている。壮介はそれを知りながら、消さなかった。
〈三度目に読んだとき、空白の中に自分の声が聞こえた。書かれていない言葉の代わりに、私自身の言葉が浮かんだ。それは著者が意図した言葉ではない。私がこの原稿に投げ込んだ、私だけの言葉だった。〉
壮介の手は震えていなかった。震えていないことが不思議だった。幸夫への手紙を書いたときは手が震えなかった。今日も震えていない。しかし理由が違った。あのときは確信があったから震えなかった。今日は、確信がないまま書いているから震えていなかった。
〈この原稿の余白は、読者それぞれが自分の言葉を置く場所だと、私は思う。著者が余白を残したのは、読者にその余地を渡すためだったと、私は読んだ。この読みが著者の意図と一致するかどうかは、私にはわからない。わからないまま、ここに書く。〉
壮介は赤ペンを止めた。書いたものを読み返した。
磨かれていなかった。壮介が編集者として作家に求める水準の文章ではなかった。曖昧な箇所がある。主語が省略されている箇所がある。「思う」「読んだ」という個人的な言い回しが繰り返されている。壮介がいつもなら赤ペンを入れる類の文章だった。
壮介は赤ペンを持ったまま、自分が書いた文章に赤を入れようとした。
「思う」を消して、もっと断定的な表現に。「わからない」を消して、もっと正確な——
壮介は手を止めた。
消したら、これは壮介の編集者ノートではなくなる。壮介が磨いた文章になる。磨いた文章は——幸夫の手紙と同じものになる。
壮介は赤ペンを紙の上に置いた。自分が書いた文章の上に。赤ペンは文字の上を横切った。しかし何も消さなかった。
翌朝、壮介は田村の編集長室に行った。
「判断が出ました」
田村は壮介を見た。壮介の手にはファイルがあった。黒田の原稿と、一枚の紙。
「赤は入れません。原稿はそのまま出します」
田村は黙った。
「ただし、一枚だけ添えます。編集者ノートです」
壮介はファイルから一枚の紙を取り出し、田村のデスクに置いた。赤ペンで書かれた文章。赤い文字がA4の紙の上に、黒田の原稿の空白のように、ところどころ余白を含みながら並んでいた。
田村は編集者ノートを読んだ。読み終えて、壮介を見た。
「これは——磨いてないな」
「磨いていません」
田村は少し黙った。それからもう一度、編集者ノートを読んだ。今度はゆっくりと。
「これでいいのか」
「いいか悪いかはわかりません。ただ、これが私が読んだものです」
田村は編集者ノートをデスクの上に置いた。置き方が丁寧だった。十五年前に黒田の原稿を壮介に渡したときと同じ、壊れ物を扱うような手つきで。
「黒田に渡してくれ」
壮介は三度目の喫茶店に行った。同じ店。同じ奥の席。
黒田は時間通りに来た。壮介はファイルをテーブルに置いた。
「判断が出ました」
黒田はコーヒーを頼んだ。コーヒーが来るのを待った。壮介も待った。コーヒーが二つ、テーブルに並んだ。
「原稿に赤は入れません。そのまま出版します」
黒田は壮介を見た。
「ただし、一枚だけ添えたいものがあります」
壮介はファイルから編集者ノートを取り出した。赤い文字の一枚を、黒田に向けて置いた。
黒田はノートを手に取った。読み始めた。壮介はコーヒーを飲んだ。コーヒーの温度を確かめた。適温だった。
黒田が読み終えるまでに、壮介のコーヒーは半分になっていた。長い時間だった。一枚の紙にしては。
黒田はノートをテーブルに戻した。壮介を見た。
壮介は黒田の目を見た。そこに何があるか読もうとした。読もうとして、やめた。黒田の目に何があるかは、壮介が決めることではない。
「磨いてないな」黒田は言った。田村と同じ言葉だった。
「磨いていません」壮介は言った。田村に言ったのと同じ言葉を。
黒田はコーヒーカップの取っ手に指を置いた。回さなかった。
「お前がこの原稿から受け取ったものは、俺が書いたものとは違う」
壮介は頷いた。
「お前の読みは、お前のものだ。俺のものじゃない」
壮介は頷いた。
黒田はノートをもう一度見た。赤い文字を。編集者が作家の原稿に入れる赤ではなく、読者が自分の読みを書いた赤。
「このノートを原稿に添えるのか」
「はい。黒田さんの許可があれば」
黒田は長い沈黙の後、コーヒーを飲んだ。一口。カップをソーサーに戻した。音は——立てなかった。
「好きにしろ」
壮介はその言葉を聞いた。好きにしろ。それは許可だった。黒田が壮介に渡した、初めての許可。「余白を埋めるな」の反対側にある言葉。壮介が余白の隣に自分の言葉を置くことを、黒田は拒まなかった。
壮介はファイルを閉じた。立ち上がった。
「壮介」
黒田が壮介の名前を呼んだのは初めてだった。壮介は振り返った。
「お前のノートは——正確じゃない。曖昧だし、磨かれてないし、余分な言葉もある」
壮介は待った。
「だから、読めた」
壮介は頷いた。何か言おうとした。言葉を組み立て始めた。一文目の途中で——やめなかった。やめなかったが、組み立てた言葉を磨こうとはしなかった。そのまま口を開いた。
「ありがとうございます」
完璧な言葉ではなかった。状況にふさわしい言葉が他にあるかもしれない。しかし壮介はそれを磨かなかった。そのまま発した。赤ペンのキャップを嵌めないまま。
壮介は喫茶店を出た。ポケットの中の赤ペンに手が触れた。キャップはもう片方のポケットにあった。別々のまま。