第9章: 余白の先

出版が決まった翌週、壮介は編集室で新しい原稿に向かっていた。

黒田の原稿ではない。別の作家の短編だった。新人賞の最終候補に残った二十代の女性が書いた、祖母の認知症を題材にした四十ページの原稿。壮介のデスクに届いたのは昨日のことだ。

壮介は赤ペンを手に取った。キャップを外した。紙の切れ端で先端のインクを確かめた。書ける。

一ページ目を読んだ。二ページ目を読んだ。三ページ目で、壮介は赤ペンを余白に近づけた。

主人公の孫娘が祖母の手を握る場面。「悲しかった」と書いてあった。壮介の赤ペンが動いた。

〈「悲しかった」は不要。手を握る行為だけで——〉

書いて、止まった。

壮介は自分の注釈を読み返した。正確だ。根拠がある。一字の余分もない。しかし壮介は、その注釈の先に自分がいることを知っていた。赤ペンの向こうに壮介がいる。水野が言ったことだ。壮介の赤入れには温度がある。伝達の場面で注釈が長くなる。壮介はそれを「技法上の問題」と言っていた。しかしそれは嘘だった。壮介は伝わらなさに反応する人間だった。赤ペンはその反応の延長だった。

壮介は注釈を消さなかった。消さないが、その横にもう一行書いた。

〈ただし、作者の判断を尊重します。「悲しかった」を残す選択もあります。〉

壮介はその一行を見た。以前の壮介なら書かなかった一行だ。赤を入れるなら根拠がいる。根拠のある修正と、作者の選択の尊重と。その間にある余白。壮介はその余白を残した。


昼前に水野が編集室に入ってきた。鞄から原稿のコピーを取り出した。黒田の原稿ではない。水野が引き継いだ別の担当作家のものだ。

「壮介さん、ちょっと聞いてもいいですか」

壮介は椅子を回した。

水野はコピーのあるページを開いた。付箋が一枚貼ってある。

「ここの描写なんですけど。主人公が恋人に電話をかける場面で、『伝えたいことがあった』って書いてあるんです」

壮介は頷いた。

「前なら、壮介さんに聞く前に赤を入れてたと思います。『伝えたいことがあった』は説明的だから消すべきだって。壮介さんの教え通りに」

壮介は水野を見た。

「でも——この『伝えたいことがあった』を消したら、この主人公が電話をかけた理由がなくなるんです。読者は行動から推測できる、と前なら思いました。でも、この作者はわざと書いてるんじゃないかって。この主人公は、自分が伝えたいことがあるとわかっている。わかっていて電話をかけている。それを読者に見せたいんじゃないかって」

水野はそこで止まった。壮介を見た。

「正直に言うと、どちらが正しいかわかりません」

壮介は少し黙った。それから言った。

「どちらが正しいかは、水野が決めることだ」

水野はノートを持っていた。開いていなかった。

「壮介さんならどうしますか」

「俺なら——」壮介は少し考えた。考えた言葉を磨こうとした。磨こうとして、やめた。「俺なら、消すかもしれない。でも、水野の読みが間違っているとは思わない。お前がそう読んだなら、それは水野の読みだ」

水野は頷いた。ノートを開いた。何かを書いた。壮介にはその文字が見えた。今日は見えた。水野はこう書いていた。「自分の読みを信じる」。

壮介は少しだけ笑った。笑ったことに自分で驚いた。


その日の夕方、壮介は田村の編集長室に寄った。

田村はデスクで校正刷りを読んでいた。黒田の原稿の校正刷りだった。表紙のデザイン案が横に置いてある。タイトルはまだ決まっていない。

「田村さん」

「ああ」

「黒田さんから連絡はありましたか」

田村は校正刷りから目を上げた。「ない。弁護士からも何もない。許可が出たから、そのまま進めている」

壮介は頷いた。

「壮介」田村は言った。「あの若い作家のことだが」

壮介は立ち止まった。黒田が語った若い作家。批評が正確に届きすぎて、書くのをやめた作家。

「黒田は『知らない、知ろうとしなかった』と言っていた。俺もだ。あのとき俺は黒田の担当だった。あの若い作家のことは——知っていた。知っていて、何もしなかった」

壮介は田村を見た。田村は校正刷りに目を戻していた。

「あの子が今どうしているか、俺は知らない。調べることもできる。だが——」

田村はそこで止めた。壮介は待った。田村は続けなかった。

壮介も聞かなかった。あの若い作家のその後は、壮介の物語ではない。黒田の物語でもない。田村の物語でもない。あの作家自身の物語だ。壮介がそこに赤を入れる権利はない。

「校正刷り、確認します」壮介は言った。

田村は校正刷りを壮介に渡した。黒田の原稿。空白を含んだまま。編集者ノートが一枚添えられた状態で。


夜、壮介は自宅のデスクに向かっていた。

新人作家の原稿が開いてある。祖母の認知症の短編。壮介は赤ペンを持っていた。キャップは——ポケットの中だった。机の上でも、ペンの横でもない。ポケットの中。別の場所に。

壮介は原稿の二十ページ目に来た。孫娘が祖母の部屋を訪れる場面。祖母は孫娘の名前を忘れている。孫娘は名乗らない。名乗らないまま、祖母の隣に座る。

その場面の後に、三行の余白があった。

作者が意図的に空けたのか、単なるフォーマットの問題か。壮介にはわからなかった。以前の壮介なら、作者に確認の連絡を入れていただろう。「ここの空白は意図的ですか?」と。正確な答えを求めて。

壮介は赤ペンを余白に近づけた。近づけて——書かなかった。注釈も入れなかった。空白を空白として残した。

この三行に何があるかは、壮介が決めることではない。読む人が決める。壮介は一人の読者として、この三行に祖母の声を聞いた。名前を忘れた祖母が、それでも孫娘の手の温度は覚えている。壮介はそう読んだ。他の人は違うものを読むだろう。それでいい。

壮介は次のページに進んだ。赤ペンを走らせた。一字書いて、消した。書き直した。

同じ手つきだった。同じ慎重さだった。赤ペンのインクは赤く、余白は白く、壮介の手は紙の上を動いていた。

ただ、壮介はもう、その余白を「埋めるべき穴」とは呼ばなかった。

壮介は赤ペンのキャップに手を伸ばした。ポケットの中のキャップ。指に触れた。触れたまま、嵌めなかった。

原稿の次のページを開いた。赤ペンの先が白い紙に触れた。